過去、現在、そして未来へ
- 相談役・機械製造部
- ⻆田 鬨生
- 機械製造部
- 村田 廣
「製造業であるからには、下請けではなくメーカーを目指さなくては」。いつしか、それが城治の目標となっていた。メーカーなら製品価格を自社で決定でき、高収益体質への移行も夢ではない。そのためには、独自技術を保有することが先決と考えた城治は、まだ産学連携の概念もなかった1996年、当時の姫路工業大学(現兵庫県立大学)に飛び込みで訪問し、共同研究の話を取りつける。
様々な技術開発に取り組んだこの事業から、城治が得たものは大きかった。「研究開発をすることで初めて自社ブランドを持つことができる。そんな当たり前のことを理解したのです。ただ、本業を継続しながら次の研究開発に時間・資金・人材を投資することがどれほど難しいか」。
当時、様々な研究者と関わりを持つ事により、研究者やプロにも本物と偽物がいると気づかされた。この経験が城治の転機となった。「どんな美辞麗句を並べられても、本質を見抜く“眼”が磨かれた。それが今の経営判断の上でものすごく役に立っていますね」。
城治の“本物・本質”を追求する姿勢は、営業活動にも反映された。「仕事をください」という営業からソリューション型の営業にシフトしていったのだ。「要は、発想と視点の転換」と城治は言う。「一部の加工だけを請け負うのではなく、お客様の生産効率向上やコスト削減をトータルで見すえた提案をしていったわけです」。たとえば、提案内容はこんな形だ。「原価1,000万で製造している工程を、弊社に丸ごとアウトソースしてもらえれば700万円でできますよ」と提案することで、顧客は収益性の向上が見込める。それは顧客と弊社の双方をwin-winの状況に導く、“本質的な”提案だった。時間はかかったが、パートナー企業としてともに成長できる顧客や事業が徐々に増えていった。数々の事業を育て上げた城治に、豊も徐々に信頼を置くようになっていた。
良好なパートナーシップを築くことがきた取引企業との関係のなかで、HIPシリンダー事業とめぐりあう。HIPシリンダーとはプラスチックの成形に使われる射出成形機の心臓部を担う加熱筒のことで、高い耐圧・耐蝕・耐摩耗性能が求められる。加工の難易度は極めて高い。そのHIPシリンダー製造のパートナー企業として、技術力に定評ある弊社に白羽の矢が立った。
最初は一部工程のみを請け負っていたが、製品の供給義務を引き受けるため、すべての製造工程を自社で行える体制を整えた。それから2年間の月日が流れ、弊社は“HIPシリンダーメーカー”となったのだった。